盆栽には見方と見るべき場所がある
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こんにちは、今日も元気に盆栽していこう。
今回は盆栽の見どころについて書いていく。
盆栽の主な役割は見るものを楽しませることにある。
確かに何も知らずに見てもその迫力や雰囲気を感じることはできる。
しかし、具体的になにがどのようにすごいのか。
それを見ることができればより盆栽の楽しみの幅が広がる。
つまり、盆栽には見方と見るべき場所が存在する。
まず、盆栽の見方としては、下記を感じられるかどうかである。
- 大樹感
- 古木感
- 大自然の厳しさ
そして、具体的に盆栽の見るべき場所は下記である。
- 根張り
- 幹肌
- 樹幹
- 枝ぶり
- 葉性
結論としては以上である。
盆栽を目の前にしたときこれらを意識してみると世界が広がるだろう
そもそも盆栽とは何だろう
なんでそんなことを考えながら見る必要がるのか。
その答えとしては、盆栽の成り立ちに大きく関係がある。
盆栽とはもともと盆の上に大自然を詰め込んだジオラマである。
プラモデルや鉄道模型の世界と似ているといえばイメージがわくだろうか。
例えば、ガンダムプラモデルのジオラマであれば、作品の名シーンを再現したものなどがある。
その非現実的な世界のワンシーンを再現することで、見た人はその世界に入り込むことができる。
また、同時に前後のシーンを回想することができるだろう。
それは実際にすべてのシーンをアニメなどで見るよりもドラマティックに見えるかもしれない。
また、ディズニーランドのイッツアスモールワールドや東武ワールドスクエアはどうだろう。
まるで世界を旅行したような気分にならないだろうか。
そう、盆栽もそれらと同じものである。
盆の上に山や木を配置し、自然の風景を再現したものが始まりである。
そうすると、何を言っているんだ、山ぐらい見に行けばいいじゃないかと思うかもしれない。
現代でいえばまさにその通りである。
わざわざ、小さな盆の上で世界を再現しなくても本物が見れるのだ。
だが、世が世ならどうだろう。
車も鉄道もない時代であれば徒歩かカゴくらいのものだろう。
場所が場所なら、たどり着くだけでも一苦労である。
しかも、ろくな山岳装備もなければ山道だって整備されていないのだ。
ほとんど見たことも行ったこともなかったのではないだろうか。
さらに言えば、移動そのものの自由すら許されていない時代だってある。
そのような状況であれば、昔の人の山の木々の世界と我々のガンダムのような世界。
それらがほぼ同等の存在であることが、わかる気もしてくる。
つまり「盆栽を見ることで実際に見ることの難しい大自然を感じられること」が盆栽の価値であるといえる。
そんな人の寄り付かない場所には、見たことのない大木や年経た古木が威風堂々としているに違いない。
そしてそれは、厳しい大自然の環境で見たこともない迫力を醸しだしているに違いない。
そんな風に想像を巡らせていたと推測できる。
昔の人にとって盆栽とはジオラマのようでもあり、映画館のようでもあり、メタバース空間のようなものでもあっただろう。
まさにアナログ映像エンターテイメントの集大成ともいえるのではないだろうか。
鉢の端を境に盆栽を見上げる
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盆栽の成り立ちや目的がわかると自ずと見方もわかってくるだろう。
実際に大樹の前に立った気分になればいいのだ。
その縮尺は、見る人に任せられることになる。
おすすめは、鉢の上端、盆栽の根っこあたりまで目線を落とす。
多くの場合は、中腰かしゃがみ込むくらいになるだろう。
そう、大樹を前に見下ろすものはいない。盆栽は見上げるものであるのだ。
そして、見上げる動作は目線に現れる。
根っこから、幹へと視線を移し、幹から伸びる枝先へ、最後に先端の葉へ。
その雄大さと存在感を存分に感じ、その木の形状から木の歴史を感じ、周囲の大自然の厳しさを感じる。
そう、盆栽は下から見ていくのがよいとされる。
やせた土地から栄養を組み上げるために四方八方に無数に伸びる太い根。
厳しい中にその樹齢を感じさせる太い幹と荒れた幹肌。
不自然に曲がりくねった幹は大自然の繰り返しによる圧力によるものか。
不足したエネルギーを補うために広く細かく伸びた枝葉。
その枝の長さと重さを支えるためにやや下げ気味のようだ。
ところどころ折れた枝の痕もある。
夜は凍えるような寒さで、昼は照り付ける太陽と吹き付ける強風。
降り積もる雪で幾度となく枝を折られただろう。
それらの逆境を打ち弾きながら、今の姿を保っているあふれる生命力。
それらをより感じながら盆栽を見つめることができれば文字通り無限の世界が広がる。
盆栽の美しさと芸術として扱われる理由
盆栽の芸術性とは積み重ねの美しさであるといえる。
通常「美しさ」とは傷や汚れなどの欠陥がないことの度合いを示すことが多い。
美しい宝石、美しい車、美しいドレスなどはこれにあたるだろう。
しかし、「盆栽における美しさ」とは、生命力や耐え抜いてきた痕跡などの歴史、積み重ねを指すことが多い。
これは、人間のしわや傷跡、芸事の完成度、熟成したワインなどに似ている。
先述した大自然の風景をどのように表現するかというところに芸術性があるのだと感じる。
やっぱり仮想空間なのか
ここまで書いてきて、盆栽とは何かと見どころは理解いただいたかと思う。
しかし、私はひとつの疑問を抱いている。
こんな形の樹って実際にあるか?
盆栽は実際の山の風景を切り取ってきて、一部をミニチュアで再現している。
そうすることにより、その周囲の環境まで想像させるものが盆栽であったはずだ。
つまりは、切り取ってきた風景の樹は、盆栽を圧倒する実物が実在するものでないとおかしい。
ジオラマであるとはいえ、ガンダムではないのだ。同じ樹である以上は実在し得るはずである。
しかし、場所はどこでもいいのだが、盆栽の形をした樹を見たことがない。
街中の街路樹にあるわけもないのだが、厳しい環境の険しい山の中にはあるはずである。
森林限界が2400mであることを考えると標高1500~2400m程度の場所で見ることができるはずだ。
しかし、私の登る山が悪いのか見たことがない。
つまり、厳しすぎる環境ゆえにその数が極端に少ないか、そもそも想像の産物であると考えるしかない。
いくつかの銘木と呼ばれるものには、盆栽に似た要素を見ることはできる。
しかし、それは人に手入れされたものであって、自然界に盆栽のような形をした樹を見ることは難しい。
そのため、盆栽とは厳しい自然環境による痕を凝縮した仮想現実世界であると考えられる。
そんなことも思いながら盆栽に水をやる毎日がとても楽しい。
今後も盆栽情報について書いていきたいと思う。
それではまた。
まとめ
- 盆栽を見るときは見上げる
- 盆栽は下から見ていく
- 大自然の厳しさを想像する
- 盆栽はアナログ映像エンターテイメントの集大成